受験の前提の崩壊「認知機能」と「教科書内容の完璧な理解と習得」は?

※上記イラストは文春オンライン記事より引用
※「ケーキを切れない非行少年たち」宮口幸治著 2020年ベストセラーとしてシリーズ累計150万部突破
※宮口氏:神戸大学医学部卒 児童精神科医として精神科病院や医療少年院に勤務された医学博士

丸いケーキを3等分できない非行少年の図は衝撃的でしたので、私は以前から知っていました。前頭葉を鍛えるのは算数学習における訓練や鍛錬が有効であり、前頭葉(前頭野連合)は思考を司っていますが、自らの行動を抑制したり自制する機能があります。ですから、算数が出来なければキレやすくて犯罪を犯しやすいだろうなと分かっていたので、まあ少年院の話だから関係ないかとこの本を読んでいませんでした。ふとしたきっかけで、この本を最近読んだのですが、なんと最近の小学生で受験勉強をする際に問題となる課題がたくさん書いてあるではないですか!?特別な特殊な話としておくには、勿体ないと思いご紹介しようと思ったのです。
いわゆる小学生にはありがちな話であって、そのまま大きくなってしまうと大きなリスクが残るという話なんだと思います。まだ、幼い小学生の認知機能が低いのは当たり前と言えば当たり前です。ですから、そのために勉強していると言えます。ですが、その課題を放置して事なかれ主義の教育にしてしまっている風潮がありますし、コロナ禍もありましたし、デジタル化、教育産業の発達とその競争激化という環境変化があります。学校の先生たちは、手足を縛られた状態での学級経営を求められていて、叱ればパワハラとだの子供の権利だのと、ごく一部の人たちに騒がれてまともな大人に育てることが難しくなってきています。

こうしたなかこのような現状があるのは自然の理というものです。この本に出て来るのは高校生大学生の少年少女たちなのですが、これらのことは小学生中学校での問題児童の特徴「認知のゆがみ」の放置が原因でもあり、この本でテーマとなっている「認知機能」の問題を知って克服しておく必要があり、学力低下とコミュニケーションが取れないことと、犯罪とが密接に関連しているということからも、生活習慣と学習習慣をしっかりと確立して努力精進できる子に育てていくことの重要性がわかります。それは、受験算数を通して鍛えていくこともあり得るということですね。スポーツで鍛えたり、音楽や美術で鍛えるということもあるでしょう。ですが、受験算数で認知機能を高めていくことはとても有効だと思います。受験は親子の二人三脚でもあるので家庭内コミュニケーションも取れて一石三鳥四鳥五鳥です。しかも、算数で鍛えた認知機能は国社理にも役立ちます。なぜコミュニケーションが必要か?については後に述べます。

繰り返しますが、認知機能は脳の司令塔である前頭葉が関係しており、その前頭葉を鍛えるために有効なのが算数なのです。思考しないといけないので、認知機能と深い関係があります。

丸いケーキを3等分するには、右のようにベンツのマーク,または三ツ矢サイダーのマークのように切りますよね?Yの字をもう少しバランスよく調整すれば3等分できます。
左の切り方だと、中心を意識できていないですし、等しい面積かどうか判断しにくいです。数学だと弦を2か所に引いて、それぞれの垂直2等分線を引くと円の中心を見つけた上で3等分することを要求されます。コンパスで半径を1辺とする正3角形を6つ作って円に内接する正6角形を描けば正3角形を作図できます。算数だとそこまでは要求されません。この場合も定規コンパスを使わずにフリーハンドで3等分するだけの出題と思われます。
他の非行少年の解答として横に線を引いて5つに分けているものもあるのですが、これは数という概念から躓いていることから、3,4,5が具体的な数と対応していることが概念形成されていないのです。2歳ぐらいでは、「に」「さん」「よん」という数を知ってはいるが、具体的な個数とは対応できていないのだそうです。「さん」は3個のものに対応していないのだそうです。2歳半から3歳ぐらいになると「さん」がたくさんという意味ではなくて「に」よりもきっかり1つ多い数だと認識でき、一旦理解して以降は、すべての数に当てはまることを理解する。3,4,5・・・800,801というのがそれぞれ違う数を表すということを理解するまでに至る。※今井むつみ著「学びとは何か」より
つまり、5つに切ってしまう少年は、円の中心以前に数の概念形成が出来ていなということになり、知能に問題があるということになります。
小学校受験で出題される円の3等分の問題を、幼稚園児はどのようにして正解のベンツのマークに切れるようにするのでしょうか?おママゴト遊びの中で自然に切れるようになる子もいるでしょうし、中心を見つけて切っていくというたぶん一番正しいであろう円の仕組みの理解と等分をしている子までいます。中には、なんと親が子に300回もこの右の図を繰り返し見せて覚えさせる場合もあるのだそうです。
小学生になったら、当然円というものを学びます。小学校の担任の先生によっては、棒を立ててロープを結び、一方の端をみんなで持ってロープをピンと張ったままクルクルと棒の周りをまわって円を描くということをやって下さっている場合もあるのだそうです。こうして「円はある点から等しい距離にある点の集まり」という円の定義を学びます。

そして、教室にて紙の上に画びょうと紐で机上にて円を描いてさらに学習を深めます。この前提として、点と線、距離、長さ、広さ等の図形の概念形成が出来ていないとこれらの授業も理解出来ないことでしょう。つまり、算数数学の学力は積み重ねであって、1つでも欠けるとどんどん次のことが分からなくなっていく教科なのです。算数は出来なかったけれども数学は出来るということは、起こり得ないのです。
ですから、低学年から受験塾に通い教育産業の勧める怪しげなトレーニングには熱心であっても、小学校をバカにして教科書内容を軽視する風潮から、概念形成が出来ていない、受験の前提学力が身についていない生徒が散見されるようになってきました。コロナ禍による影響でそれに拍車がかかっています。ですから、ある日突然学力崩壊を起こす受験生が最近は目立つようになってきたと聞いていましたが、より多くの受験生たちが絶望の淵に陥ることでしょう。
非行少年たちが苦手なことは「勉強」と「人と話すこと」なのだそうですが、コロナ禍で数年間コミュニケーションが極端に減ったため、子供たちの勉強はもちろんのこと、その勉強の前提である「認知機能」に影響が大きく出ていることがわかり現状に合点がいきました。30年前よりも明らかに受験する小学生たちのレベル低下を実感していましたので、(同程度の偏差値で比較してもです)小野算数塾では近年、入塾時に「人のお話を聞くこと・指示行動をとれること・指導者の真似が出来ること」を冊子にして注意喚起するようになっていたのですが、このコロナ禍で認知機能の低下が決定的となりました。

認知機能とは、学習以前の能力的なもので
・聞く力
・見る力
・想像する力(時間感覚・計画を立て実行する力も含む)
この3つなのだそうです。

小野算数塾では、こうした力が学力にとって非常に重要であるとして入塾案内においても注意喚起をして、ご家庭でもお子様とコミュニケーションをとるようお願いをしています。結局のところ、認知機能が高ければ学力が上がり、低ければ下がるからです。さらには、この認知機能が低くなると犯罪の原因となり得るのだそうです。小学生であれば、当然こうした認知機能は低くて、聞く力なんて言うのはないに等しい子もいます。注意をされたら「悪口を言われた」という程度の認識の子もいるぐらいで、自分が半人前であってものすごく努力をしないと大人になれないなんて思っていません。ですから、こうした認知機能を上げていかないと非常に危険なのです。犯罪者は得てして自己中で人の気持ちもわからなければ、人の努力なんて思いもしない我儘な幼児性の強い人間ばかりです。めぐまれない環境要因だったり理由はいろいろあるでしょう。

「やりたいけれどもやってはいけないこと」
「やりたくないけれどもやらねばならないこと」
があることを知ること、
「自分が嫌なことは人にやってはいけない」
「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」
こういったゴールデンルールを理解していないことこそ認知機能が低いということなのです。

結局、小学生が小学生のまま大人になったなら、体力や財力もつくため大変なことになってしまうのです。

なぜ、コロナ禍で決定的となったかと言うと、コミュニケーションが圧倒的に不足したことと、学校生活がプリントやネットで代用されたからです。完全にデジタル教育(プリントも含め)の弊害が出ています。弊塾の過去のブログ記事にありますように、「豊かな経験」がいかに子供たちの脳の発達に大切であるのかは論じてありますのでご参考になさってください。
コロナ禍だけではありません。この宮口先生も否定していらっしゃいますが、教育にはびこる「褒める教育」という間違った考え方があります。
以前から、どこからともなく流布される「褒める教育」に加え、小学校教科書内容の軽視や低学年からの「先取りこそ勝利の鍵」「大は小を兼ねる」「数学は暗記だ」といった間違った風潮によってこうした傾向は加速してきましたが、「コロナ禍」でさらに認知機能の低下が決定的となりました。

この本の中にもこうあります。
「少年院で教官の先生から注意や指導を受けると、『僕は褒められてて伸びるタイプなのに』と泣きながら言い訳をしたりする少年が。きっと親からもそう言われてきたのでしょうが、その結果が少年院です。
(中略)
“褒める”“話を聞いてあげる”は、その場を繕うのにはいいのですが、長い目で見た場合、根本的解決策ではないので逆に子供の問題を先送りにしているだけになってしまいます。」とあります。
私も全く同感です。そのままで素晴らしいのならば教育を受ける必要性が全くありません。
教育基本法に教育の目的は「真理への到達」とあり、「人間の諸特性、諸能力をただ自然のままに伸ばすことではなく、普遍的な規準によって、そのあるべき姿にまでもちきたすことでなければならない」とあります。人類が営々と築き上げてきた宗教・哲学・倫理には意味があるのです。
※文部科学省HPより転載 教育基本法第1条「教育の目的」 あるべき姿の1つは「真理と正義を愛する」とある。
次にコミュニケーションが何とどう関係があるのか?ということですが、これは自己認知をする上でとても大切なのだそうです。
「ある少年に不適切な誤りがあった場合、その少年がそれを正したいという気持ちを持つには、まず、“自分の今の姿を知る”といったプロセスが大切になります。自己の問題や課題に気づかせ、“もっといい自分になりたい”といった気持ちを持たせることが、変化のための大きな動機付けになるのです。(中略)
心理学者のゴードン・ギャラップは、集団の中で普通に育った野生のチンパンジーと、集団から隔離して飼育したチンパンジーの自己認知の発達を比較しました。すると、隔離して飼育したチンパンジーは自己認知能力を示す兆候がみられなかったことが判明しました。
人間も同様です。無人島で独り暮らしをしていると、『本当の自分の姿』は分かりません。つまり、自己を適切に知るには、人との生活を通して他者とコミュニケーションを行う中で、適切にサインを出し合い、相手の反応を見ながら自己にフィードバックするという作業を、数多くこなすことが必要なのです。」とあります。
認知能力(聞く力・見る力・想像する力)が弱ければコミュニケーションが取れないとあります。さらに、認知能力を鍛えようとすれば、コミュニケーションを取らなければ、これらの力は鍛えられないと私は思います。

私の経験からすれば、認知機能の低い子ほど、褒めるとすぐに転落します。すぐにいい気になって出来上がってしまうのです。認知機能が低ければ、客観的自己認識ができないのですから、自己評価は上振れしがちです。だから、受験勉強でも自己の実力に対して難しい勉強をしがちでアンマッチを生んでしまい、いつまで経っても学力があがらない、それどころか下がるというような現象が起きるのです。認知機能が高い人ほど自己客観視が出来ていて、平凡性の自覚があるので努力をするのです。経験のない若い人ほど怖いもの知らずです。経験のない頭のいい人ほど、怖いです。ましてや小学生なんて、絶対に褒めてはいけないぐらい調子に乗りやすく転落しやすい、スグにサボる生き物はいないのではないでしょうか。それが証拠に成績がいい人ほど解説をしたら必ずノートを取ります。逆に「君に説明したのだよ!?」という生徒はノートを出そうともしません。面白いことに1番成績のいい生徒が一番熱心に一番真剣に聞いているのは昔も今も変わりません。それに、賢い子ほど褒めると「こんなことで褒められるなんて、バカにでもされているのかな?」と思います。努力するのが当たり前なのでちょっとやそっとの努力で褒められたらバカにされているように感じるのです。こうした経験から、褒める教育を推進している人は、どこの星のどんな生物に対して教育をしているのだろうと不思議に思ってしまいます。宮口先生がおっしゃっておられるように、いかに自分が出来ていないのか?課題があるのか?ということ、努力して直さなければならない点がたくさんあるのかを認識させることが重要であって、自分にダメな点があるという自覚がない限り、小学生ならば「ヤバ!!!」と思わない限り人間は努力しません。それを努力して出来るようになったら、向上したら、その成功体験こそが褒めてもらえることよりももっとご褒美である成功体験を積めているということではないでしょうか?

私は本気で教育は心にはじまり心に終わる、愛に始まり愛に終わると思っています。実際に次の話を片時も忘れたことがありません。
あるアメリカの大学が行った孤児院の就業調査の話です。生活環境によってどのような仕事に将来就くのかを調査したのだそうです。そして孤児院の子供たちはどのようになっていくのかを調査していたのですが、どうもその孤児院では、予想に反して医師になったり弁護士になったりと社会的ステータスの高い仕事についている人が多かったのだそうです。そこで院長にヒアリングを行うのですが「どうしてみなさん社会的ステータスの高い仕事についているのでしょうか」と質問をぶつけたのだそうです。すると院長からは意外な言葉が返ってきたのです。
「何か特別なことをした覚えはないけれども、心当たりがあるとすれば、1つだけあります」
「それは、私はただ子供たちを愛しただけです」
これは、日本でも似たような話を聞いたことがあります。東大に合格した家庭を調査した際に、個人商店のお家があったのだそうですが、両親は学歴もなく勉強を教えられるわけではないのに、どうして子供が東大に行けたのだろうと質問すると、やはり「この子に特別な教育をしたわけではないけれども、この子を愛するということはちゃんとしたつもりだ」とのことでした。※愛と言っても我儘に甘やして育てることとは違うと思います。
私は、これらの話とこの本の中の認知機能とコミュニケーションと学力との関係から、すべてが明確につながりました。
そうなのです。何か特別な方法が山のあなたの空遠くにあるのではなくて、日々のコツコツとしたコミュニケーションの積み重ね、手間暇かけて我が子とコミュニケーションをとったり、豊かな経験を積ませたり、幼少期もお友達と遊んだり、喧嘩したり、泣いたり、笑ったり、悔しい思いをしたり、達成感を感じたりしながら成長していくことこそが、認知機能を高めて受験勉強をしていく大きな力となるのだということなのです。小学校での学習も学習指導要領に従って、身の回りの具体物を大切にしながら、現実と教科内容とを結びつけて世界を知っていくこと、学んでいくこと、豊かな経験を積んでいくことこそが大切なのだと確信を持てました。
皆様が、中学受験をする際に明らかに勘違いしがちなことがあります。以前にブログで書きましたので「先取りこそ勝利の鍵」「大は小を兼ねる」「数学は暗記だ」については、詳しくはそちらをご覧ください。とにかく、競争なので子供の発達段階を無視して、理解出来なくても難しいことを無理矢理暗記させるというものですね。なので、ベンツのマークを300回フラッシュカードのようにして覚えさせるのですね。学校教科書内容なんて簡単だからという勘違いから、概念形成ができていないにもかかわらず、小学校低学年の教科書内容なんて大丈夫だろうと高をくくって、小1から受験塾に通って難しいことや受験と名の付くことをとにかく効率的にプリントを繰り返しやらせてどうにかしようとします。むやみやたらに習い事に行くそういう時間があるのであれば、習い事に行ってもいいのですが、超過密スケジュールにしなくとも親子のコミュニケーションの時間だとか、お友達との遊びの時間にこそ認知機能発達の機会があると思うのです。私は、そういうとってつけた教育産業のコンテンツよりも、幼少期は遊びや生活の中での経験こそが大切であって、何か特別なことの中に脳の発達があるとは思えません。やりたければやってもいいですが意味がないと思います。受験勉強のスタートは4年生からで十分です。それまでは、小学校の勉強をしっかりとやって、体を鍛えて、生活習慣を整えて、日々のコミュニケーションをしっかりとしていくことです。コツコツと正しい習慣を身に付けていくことです。そうした当たり前の日常生活の中でしか認知機能は育たないのではないでしょうか?

最近、スマホ育児なるものがあるとニュースを読みました。スマホに相手をさせて、効率よくデジタルコンテンツで様々なものを学ぶのだそうですが、スマホでリンゴを学んでも実物のリンゴが出てきてもリンゴだと認識できないのだそうです。絵や写真ならわかるけれども、実物だと認識できないというのはこれって意味がありますでしょうか?
それに、スマホばかり見ている親を見て育った子は、自分も真似てスマホとタブレットでデジタルコンテンツばかり見るようになるでしょう。当たり前のことです。メディアリテラシについて、最近では小学校の教科書でも注意喚起を促すようになっています。5年の社会の教科書でメディアリテラシーを学び「新聞テレビ雑誌ネット」の情報は、当てにならないからその真偽やエビデンスを確認して取るようにしないと危険であると習うように今はなっています。また、スマホはデジタル麻薬だとベストセラー「スマホ脳」のアンデシュ・ハンセンは警鐘を鳴らしています。
電車などは特にそうですが、見渡してみると、ほとんどの人がスマホに夢中です。そんなにスマホの奴隷になりたいのでしょうか?受動的に流れて来るAIに選んでもらったおすすめコンテンツに相手をしてもらって、自分の人生の時間を無駄にしていませんでしょうか?時間は私たちの命そのものです。これは能動的に本を読むのとは違います。1冊の本と細切れのネットコンテンツとでは情報の質が根本的に違います。読書の1時間はテレビの6時間と言われていて、ネットコンテンツを見ているとバカになるというのは本当です。そういえば、東大の入学式で学長がスマホを置いて本を読めとおっしゃっておられましたね。ネットコンテンツでしか得られない情報ももちろんあることでしょう。ですが、そればかりになると危険です。
これって、どんどん人と人とのコミュニケーションを無くしていって、認知機能を低下させ続けているということではないのでしょうか?それを、社会全体でやっているという・・・小学校でも、学校の先生がいても学級崩壊するものだから、スマホ育児ならぬタブレット教育をやらせていますよね?この先、日本が犯罪大国になっていくのが目に浮かびます。コミュニケーションを無くしていけば、人の気持ちがわからなくなり、共感性もなくなり、自己認識もわからなくなり、何がいけなくて何が良いのかの善悪もわからなくなっていきます。日本の将来が末恐ろしいです。デジタルコンテンツももちろんのこと、あらゆるメディアから子供たちを守るのは大人たちの役目だと思います。

さて、幼児期そして小学校低学年においてスマホやタブレット、そしてプリントをやらせたり、大手塾に通わせている場合もあると思います。これって、スマホ育児と変わらないのではないでしょうか?公文式も応用問題が出来なくなるというデメリットがあると聞きますが、小学校での概念形成をしっかりとやった上で計算トレーニングをしていく分には有効だと思います。小学校教科書の概念形成が出来ていない場合に、公文で機械的にしか解けなくなって、算数が苦手になる場合と同じように、スマホで現物のリンゴを認識できなくなるように、問題集やプリント、塾に通って問題を解きまくることも同じではないでしょうか?結局、スマホやタブレットに子の相手をさせて、頭を鍛えている気になっているだけであって、実際には何の役にも立たない無意味なことをやらせているだけになっていませんでしょうか?もちろん、公文の利用の仕方によっては、とても有効なのと同じように、親子のコミュニケーションをしっかりと取って、前提である認知機能も高めながら、手間暇かけて苦労して育てていけば違うでしょうけれど、そうでない限り子供は育たないと思います。子供は器用なので、大人の期待に応えようと機械的にどんどんと記憶していくと思います。9つまでは無意味なことであっても無前提に素直に何でもかんでも覚えてくれるからです。だから、言語の習得やいろいろな才能の獲得には9つまでが勝負だと言われているのです。それを、我が子が意味をわかって理解していると、とんだ勘違いをして、「うちの子は司馬遼太郎が読める」と自慢している場合ではないのです。本当にその意味は分かっていないのです。もっとたくさんのことを小学校で学んでからでないと、書いてあることの意味が分かるはずがありません。張りぼての偽装学力をいくらつけても、それらはある日突然崩壊していきます。そういう受験生が最近増えてきているのです。

私の尊敬する駿台予備校の茂木誠先生は、40人の教室で授業する際に生徒の目を見て、光っているとか曇っているとかを見ながら話すことのレベルを上げたり下げたり、余談を入れたりしながら授業をするとおっしゃっておられました。テキストと黒板(白板)の間だけで授業する先生の授業はわからないとのこと。授業が下手な先生は黒板やテキストと会話していますね?まさに、その通りであって、生徒とコミュニケーションを取りながら授業をしないと、授業になりません。最近、低学年から塾で(家で)プリントをやることに夢中だし、4年生以降もテキストやプリントをどんどんやることに夢中であって、宿題も大量にやって、そこのどこにコミュニケーションがありますでしょうか?それって、授業が下手な先生の授業を受け続けているのと変わらないのではないのではないですか?プリントをやってもいいですが、親子のコミュニケーションがなければスマホ育児をしているのと変わらなくなると思います。
また、大手塾で授業を受けていたとしても演習ばかりで解説があったっとしても、難問主義で約20人の教室で生徒とのやり取りもせずに、茂木誠先生のような神業的な授業とは、一線を画すワンウェイのなものであったとしたら・・・これって、ましてや自律的に学習もできない認知機能の低い小学生に意味があるのでしょうか?先生がしゃべっているか、自分が解いているだけという・・・
このように、我が子の認知機能、受講している教材のレベル、授業内容の検証なしに一律にこれで合格できると思っていては、お人好しすぎると思います。「中学受験は親の受験」で親が関わらなければ合格出来ないと言われているのは、こうした発達段階からして当然のことなのです。学齢が低いほどシステマチックに効率的にという夢のような勝利の方程式は通用しません。個々にあわせてしっかりとコミュニケーションを取らねば認知機能自体が高まらないからです。だから親が手取り足取りやらないと理社でさえ子供は自然に覚えてくれません。6年の2学期受験直前にあれだけ塾で宿題をやっていたはずなのに、何も理解できておらず何にも覚えていない我が子に、必死で親が教えて覚えさせるという光景は「中学受験あるある」なのです。かなり理解力があってレディネス十分か、そうでなければ、授業ごとに親が相当フォローして授業時間と同じぐらいの時間を費やさないと身につくはずがありません。だから、まともにやったら12時を過ぎてしまい成長期に睡眠不足を招いてしまい、あろうことか脳の萎縮を招いてしまい、逆に認知機能を下げてしまうと言った努力逆転が生じてしまうのです。
授業は対機説法でお釈迦様がやられていたように、機根にあわせて法を説くというのが基本です。その前提が抜けていれば注意喚起をして、それを勉強しておくように指示するのも講師の役目です。だから、私は学校教科書の概念形成が出来ていないと、荒野で呼ばわるもののようになって、言い続けています。授業で低学年内容を教えることもあります。その前提が出来ていないのにもかかわらず、どんどんと中学受験の勉強を無理やり積み上げていこうとするのは、ハリボテ学力、偽装学力の空の袋を立てようと一生懸命になっているだけだということを知っておいてください。

「数字であそぼ」という数学漫画があります。超難関校の数学の先生のおすすめだそうです。その主人公は写真記憶能力の持ち主で見たものは一瞬で覚えられるため、大学受験まで意味を理解せずに記憶だけで合格してしまったため、大学で落ちこぼれてしまいます。理解を求められたため、全くわからないことにショックを受け2年引きこもります。意を決して、大学に行き、様々な理由で留年している人と友達となり、励まされながら小学1年生の算数から復習して、数学は理解する教科だと友達から教えられて、自分の頭で考えることを始める物語です。写真記憶ではなくて、大量に問題を解くことで、理解していなくてもなんとなく解けることを目指していませんでしょうか?ハッと思われたら、このことを考え直してみてください。

インスタントな夢のような魔法の方法が山のあなたの空遠くにあるわけではないのです。もう、しあわせの青い鳥を探すのはやめませんか?日常のなんでもない生活や会話の中に認知機能を高めて、偏差値を上げていって課題解決できる人間になっていく道があるのではないでしょうか?なんとなく出来ることを目指すのではなくて、中身の詰まった「算数を理解できている!」と言える状態を目指しませんか?

それを、昨今の受験競争では、早期教育に励み、発達段階を無視した難しいことをやらせ、無理矢理暗記させるということを幼小期からさせています。9つまでは記号的暗記の時代ですから、そりゃあ面白いように覚えることでしょう。ですが、それは脳は複雑だからこそ少しずつしか発達しないものを無理くり脳の配線をぐちゃぐちゃにしているだけだということなのです。この本の中でも「9歳の壁」と言って、「想像力が急速に発達して口達者になる」と述べられています。そうなのです。9つからは「習うより慣れろ」で概念形成をするのではなくて、「自我」が芽生えて「興味関心がどんどん広がる」からこそ、低学年の時に感覚的に勉強していたのを「想像力」を「考える」方向に「思考」する方向に導いてあげなければならないのです。右脳という感覚的な脳を鍛えるのではなくて左脳という論理的思考の脳を鍛えなければならないのです。ですが、相も変わらずに低学年の延長線上で数をこなせば解けるとばかりに「習うより慣れろ」で小学校の教科書内容の理解もそこそこにどんどん大手塾で問題演習をしていけば、それは「考える脳を破壊」しているだけであるのです。自殺行為だと気づいていただきたいと思います。算数には概念や仕組みや考え方というものがあるのですが、ケーキを3等分するのに円の仕組みを無視して丸暗記させるのと同様のことが中学受験では行われているのです。もちろん、「認知機能」と「学校教科書の概念形成」という前提をすべてクリアしている、もともと理解力があるIQの高いギフテッド、ご家庭でレディネス十分で大手塾に通っている強者はこの話の限りではありません。
確かに、我が子、娘と息子は小学4年生のときの、四谷大塚の模擬テストの偏差値は50あったのかな?ぐらいのお恥ずかしい限りでした。成績は普通ですよね?低学年で受験を意識しての特別なことは何もしていないということをお分かりいただけると思います。
4年生以降は、私がプロ講師なので毎日我が子に教えたように思われるかもしれませんが、娘の中学受験時にはBenesseで中学受験講座を制作中で激務でしたし、塾にも通わせず4年になってから、私が週に1回2,3時間教える程度でした。息子も同様の時間かかかわっただけでした。中学受験はこれでなんとか難関中に2人とも合格し、大学受験では受験前の期間はさすがに予備校のお世話になりましたが、中高でも大学受験前以外は塾に通わず二人とも国立大学医学部に合格しております。
こう言うと何の苦労もなかったように聞こえるかもしれませんが、もちろん、中学受験家庭で皆様大変なご苦労をされて、小学生の中途半端な自覚しかない子供に自分がやる気を持ってやっているかのように仕向け、時には叱り、時には励まし、時には優しく、時には厳しくして大変な苦労をして勉強を親がさせなければならないことは、我が家も同じでありました。私が簡単に合格したように言うので、妻が「勉強させるのがどれだけ大変だったか?」と言っていますので、その気迫からその大変な苦労を感じ取ることができます。
先ほど申し上げたように、4年の時に偏差値50ないわけですから、何か特別なことを小さい頃よりさせていたわけではないのです。また、4年から6年までに猛勉強させるために大手塾に通わせた訳でもありません。有り余る時間を有効に有意義に使えたということ、それが決定打になったというだけだと思います。

もちろん、志望校に応じた適切なテキストや学習方法はありますし、算数においては小野メソッドにおける要点を学んだほうが良いと考えますが、レベルのアンマッチがあるのは初めから不合格になるようなものなので、これらのことについてはまたの機会に論じますが、何かこれをやれば良いという特別な魔法の方法があるわけではなく、ましてやインスタントな方法や、この塾に行けばという勝利の方程式があるのではないのです。勝利の方程式は、それぞれの受験家庭で小野メソッドのもと苦労してコツコツと編み出して、積み上げて、作り上げていくものです。
受験とは、心に始まり心に終わり、愛に始まり愛の終わるものの意味がお分かりいただけますでしょうか。
子供を一人育てるというのは新規事業を1つ立ち上げるぐらい大変だと言います。これと言った成功方程式があるわけではないのです。あえて言うとするならば、それは優しくも厳しい愛ではないでしょうか。その子供の性格や特徴に合わせて手間暇かけて、手取り足取り面倒を見ていた時期から、自分で出来ることをどんどん増やしていってあげて、志が持てるようになるように何百冊も読み聞かせをして、成長を阻害しないように適度にかかわり、自尊心や自制心も育て、克己心や刻苦勉励という精神も育てなければなりません。
あまり、子育てに貢献していない私が言うと、また叱られるかもしれませんが、手間暇のかかる面倒くさい愛情がたくさん必要なのが中学受験であり、子育てなのではないでしょうか。大手塾に通いさえすれば、勝利の方程式があってインスタントに合格できるようなものではないと思います。もちろん、かなりの日数と時間を塾に座りに行って、問題を解いて解いて解きまくって、出された大量の宿題を解いて解いて解きまくっていれば、理解出来ていなくても、なんとなく合格できる場合もあることでしょう。ですが、中高になって、キルケゴールの馴らされた鴨の話のように、「餌をくれるおじいさんがいなくなったら、冬になったら暖かい南へ餌を探しに行くという野生の渡り鳥としての能力を失って、餌を探しに行けなくなって死んでしまった」となってしまっては元も子もありません。グローバル企業のIBMでは「野鴨の精神を忘れるな」と社訓としています。もちろん、理解力があって暇つぶしで大手塾に通っている人たちには関係ない話かもしれませんが・・・
なんでもそうですが、小野算数塾に通ってくださったとしても、弊塾の指導方針に沿わずに通わせているだけになって、人任せになったら効果は全くありません。ですので、「受験は自分のこと」であって、誰かがどうにかしてくれる訳ではないと折に触れて言っています。どうも、年々、人任せなご家庭が増えているように思います。逆に構いすぎももちろんいけません。我が子をおぶって走っていただいても、子供の脚力はつきません。当然ですが、子供に機嫌よく走ってもらわない限りどうにもならないです。子に走らせるのは親の責任です。

大人でも、賢い人はみんな直線的に効率的に出来ないかとショートカットを探しがちになります。創意工夫をして改善改善改善してくのは良いのですが、効率化という名のもとに凡事徹底という面倒で手間のかかることをさぼりがちになるのです。とある映画を観たのですが、数ある難事件を解決してきた伝説の刑事が、部屋にこもって冷房のついた部屋で楽して効率的に捜査をしようとしがちな若手を「捜査は足でかせぐものだ。現場を歩いてなんぼだ」と叱り飛ばしていました。
かの伝説のコンサル、約5000社を倒産の危機から救った一倉定さんは、「郵便ポストが赤いのも、電柱が高いのも社長の責任」と人の言うことを聞けず反省できない人種の社長族を叱り飛ばすのを仕事としていたのだそうです。レジェンド一倉定さんも「穴熊社長が会社を潰す」と現場に社長が足を運び凡事徹底をすることが大切だと指導していらしたそうです。
それは海外でも同じでGoogleの社員証には「清掃の徹底」と書かれているのだそうです。一倉さんも業績が傾いた企業は、「整理整頓から始めよ」と言っています。私も、常日頃言っていることがあるのですが、これは入塾されている皆様だけにしか教えません。

人間は、得てして楽してインスタントに結果を得ようとします。効率的とか賢く、最新メソッドで、デジタルで、とかなんとか言えば聞こえはいいのですが、なんのことはない努力の過程をすっ飛ばしたいと思っているだけです。この世界には因果の理法という法則があって、 因縁生起の例外はないのです。原因があって結果があるのであって、コツコツとして凡事徹底という努力の過程無くして成功などないのです。空の袋は立たないのですが、みんな張りぼてで中身のない学力偽装で合格しようとします。小学校教科書さえもあいまいな状態で、当たり前のことを理解しようともせず、受験基礎も理解せずわからないままであったとしても、単に繰り返せばなんとなく解けると言って合格を目指しています。ですが、それで空の袋をなんとか立てて合格できたとしても、いつかは空の袋は立たなくなってどこかへ飛んでいってしまうのです。汗を流してコツコツと努力することなくしての成功はないのです。その努力は凡事徹底であって、ハリボテ学力をつけることではありません。そうであっては、せっかくの努力の結果が空の袋になってしまいます。そんな都合の良い話はどこにもないのです。あったとしても、それはいつかは化けの皮が剥がれるようになっています。
小野算数塾の中学受験は、手作りで尊い人間を育てる受験です。人間の可能性を信じて指導をしています。そのため、ご家族にとっての思い出深い受験、人生の宝物となる受験になったというお言葉をいただくこともございます。

皆様にもそういう受験を是非していただきたいと願っております。

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