いくら身体に良いからと言って入院患者が健康になりたいと考えてライザップに通い始めたら医師はなんというでしょうか。血相を変えて「死にたいのですか?今すぐやめて安静にして体力の回復を待ってください」と止めることでしょう。みなさんも「いくら身体に良いことだからと言っても筋トレはいかんでしょう!」と思われることかと思います。
しかし、受験勉強においては安静の必要な病人に対して、健常者が身体を鍛える筋トレというハードなトレーニングをすることと同様のことを当たり前にしている現状があります。すなわち教えてもらえない演習中心の大手塾等が取る授業手法は、「もうやることがなくて暇で暇でしょうがない」という基礎基本ができていて学習済みである、またはものすごく理解力がある子たちが通ってはじめて成果が出るのです。それを何を勘違いしたのか、すでに家庭教師や個別指導で四谷の予習シリーズの4,5年を学習済みで復習で通っている人たちと同じようにしていては、頭脳を鍛えるどころか壊してしまっても仕方がないのです。もともと中学受験は「足の速い人」がするものであったのですが、そういう人たちは、「ものすごく足の速い人」であって、本来的にものすごく理解力がありギフテッドなのです。ギフテッドと同じようにやっていては身体を壊すのは当たり前のことです。
そうしたことから、大手塾では復習で通う人たち向けの演習ばかりの授業になっているのだそうです。なぜなら、そういう御三家をはじめ、偏差値70程度の学校を確実にたくさん合格してくれるV.I.P.の受験生たちに逃げられては、大手塾の合格実績は維持できないから当然の成り行きと言えば成り行きでしょう。
そもそも大手塾のテキストは、開成上位合格,筑駒合格のために設計されていて、当てはまらない人たちがすべてを同じようにやろうとするのは、「ライザップで筋トレ」どころか「ボディビルの大会でムキムキになって優勝しましょう」ぐらいの超ハードなトレーニングを課すぐらいのことなのでしょう。すべてをやる必要はまったくありません。あれは様々な状況を想定してすべてを盛り込んでいるだけなのでよくわかっていない人が使うととんでもないことになってしまいます。では、どこをどのようにやればいいのかは「企業秘密」ですから塾生たちにしか教えません。あしからず。
※そこまでやらなくとも、小野算数塾では、そういう人たちと対等に勝負、いえそれ以上に頑張れるメソッドがあります。過去の教え子たちの模試での全国1位とか3位,5位,偏差値77や偏差値40アップなどで証明済みです。
そもそも中学受験で難関校を志望するならば、予習シリーズを自学自習したり個別指導で教えてもらうことまでせずとも、小学校の教科書レベルのことがある程度出来るようにしておくことは必要でしょう。また、低学年の「概念形成」が完璧に出来ていないようだと、それが高学年での算数でのつまずきの原因となります。最近は低学年の算数の「概念形成」と言っても「かけ算」の意味がわからず、それにともなって「わり算」の意味がわからないため、自分が何を求めているのかがわからない小学生が増えています。
よくネットで、小学生の「かけ算」においても交換法則が働くから順番や意味なんてどうでもよいのだという一派が主張を繰り返しています。「1つ分×いくつ分=すべての数」という「概念形成」不要論を唱えている人たちがいますが、それはわり算もかけ算として処理する「数学」の話であって、「算数」を「数学」で論じている時点で議論が破綻しています。はっきり言っておきますが「数学」と「算数」は違います。「算数」は「数学」の基礎となるものではありますが、「数学」は「算数」で利用できないのです。「方程式を使ったら楽なのでは?」という短絡的な方もいらっしゃると思いますが、そんなことをしたら泥沼です。機械的にしか問題を捉えられなくなって中学受験は「ジ・エンド」となります。もちろん、方程式らしきものを小学生が使えるような考え方で使用する場面はあります。それは、その時だけの話であってすべてに援用するととんでもない考えられない受験生となってしまいます。よく入試問題の過去問題集の解答解説を読んでいると、たまに数学的に処理していて難解な解法となっていて「理解を拒絶する」問題と化して「捨て問」に見えるものがありますが、それは算数で解けばとても考え抜かれた「良問」であったりします。このように「算数」は奥が深いのです。
実際に、「かけ算」の意味を適当にやっていると、次の「わり算」において何が求まったのかがわからなくなるのです。しかも、わり算で求めている考え方は、「割合」へとつながっていくため、とても重要なのです。倍分の考え方が自然に身についた大人たちは、忘れているだけであってそれは小学生時代に「概念形成」されていて自然な感覚として身につけたから、いま問題なく出来ているということなのですが、そのことは忘れ去っているだけなのです。自転車に乗れる人が、その乗り方のコツをいちいち考えますか?考えもしないでしょう。身についたものは、もう考えなくてもよいのです。「どうも、よくコケるな」「どうも人より遅いな?どうしてスピードが出ないのだろう?」などと言う場合にはじめて、基本に立ち返って「どうすれば自転車を人と同じように乗りこなせるのだろう」と考え、フォームの改造が始まるわけです。成長したのに椅子の高さが昔のままだったということもあるでしょう。「どうりでこぎにくいわけだ」と・・・
さて、「知識なくして議論なし」なのですが、そういう状態で「問題演習」ばかりを積み重ねていくと「知性が破壊」されてしまうのです。それはどういうことかと言いますと「当たり前のことを当たり前に考える」ことが出来なくなってしまうのです。子供たちとしては当然の自衛手段でしょう。訳が分からないから覚える。わからないから適当に数合わせをして答えを出す。とにかく「答え」「答え」「答え」の答至上主義の始まりです。
実は勉強とは「答え」を出すためにやっているのではなく、その途中経過の「考え方」や「仕組み」を理解して活用し身につけるためにやっているのです。答至上主義となるのは本末転倒と言えましょう。
例えば、とても簡単な問題で「1個60円のみかんと1個110円のりんごを合わせて28個買いました。みかんの代金がりんごの代金よりも830円高くなったとき,みかんは何個買いましたか?」と言う問題があったとします。これは面積図いわゆる「てっぽう図」を利用できません。いわゆる「つるかめ算」の基本的な「すべてをどちらかのみで考える」という考え方を使います。次に「つるかめ算は差集め算」なので「差がいくつ集まったものがどこと等しいのか」を見つけるだけです。
「すべてみかんを買っていたら みかん60×28=1680円 りんご0円なので みかんが1680円高くなります。」でも830高いだけなのです。みかん1個をりんご1個に交換すると みかんは60円減って、りんごは110円増えるので差は「170円縮まる」のですが、ここが機械的に解いてきた人は、よくあるつるかめ算と同じように思ってしまうのです。そして、何も考えずに差の110-60=50円としてしまうのです。そうではなくて、1個交換するごとに170円ずつ差が縮まるので、(1680-830)÷170=5個交換すればよいということとなり、りんごに交換するので、実際のみかんの数は28-5=23個です。
この170円がなかなか出てこないのです。考えることが面倒なので問題の解法を覚えにいってしまうのです。ですから普通に考えればわかることがわからなくなるのです。それをこうすれば答えが出る式で学習していては少し場面が変わったとたんに解けなくなるのです。
もうひとつ。例えば、向かい合って進む旅人算がありますが、「1200mの離れた道の両端からAは200m/分でBは300m/分で同時にスタートすると何分後に出会いますか?」と言う問題は普通に考えると二人は「500mずつ近づく」ので「速さの和」を使います。ところが、Aがフライングをして先に「1分歩いた」後にBもスタートしたとしましょう。すると途端に鉛筆が止まってピクリとも動かなくなる子がいるのです。問題演習をひたすら何も考えずにやってきて鍛錬してきた成果がこれなのです。恐ろしい限りです。フライングした1分分Aを進めてから同時にスタートし500mずつ近づいていくだけの話です。速さを理解していない学年であっても数値が単純であれば出来ることでしょう。
これらは少し引っかかりやすい例ですが、もっと単純な、ここで例を挙げることがはばかられるような例もたくさんございます。先ほど述べたようにわり算で何が求まったのかが、自分で求めておいてわからないというようなことです。
特に自分が何をしているのか、何を求めてどうしようとしているのかがわからないような場合には計算はできても意味が分かっていない場合があるので注意して見てあげてください。
ずっと寝たきりであると人間は筋力が衰えて歩けなくなってしまいます。頭も同じで「考える」ことをしないで機械的に解くこと、解法丸暗記で解くこと、答えを逆に推測して当てにいくこと、計算がうまくいくように四則を適当に組み合わせて数合わせをしてしまう事、「当たり前のことを当たり前に考える」ことを捨てて、知識のインプットもなしに基礎基本の理解もなしに、こうしたことを繰り返していると「知性が破壊」されてしまい「考える」ことが出来なくなってしまうのです。
また、「算数」と「数学」は違うので方程式を利用して考えるととんでもないことになってしまいます。「数学」を利用することで複雑怪奇なこととなり、入試ではとてもではありませんが、それを活用することは無理でしょう。
方程式とはある種機械的に解くことを推奨する道具ですので、抽象的概念の多い「数学」の中では有効な方法なのですが、「考える」ことを違う部分で要求される「算数」ではあだとなってしまいます。
普通に「算数」で考えれば簡単なことであっても「数学」で考えると解けなくなるのです。先ほど述べたように入試問題の解説を見ていても数学を利用して解いているものは訳が分からなくなっていており、いわゆる「捨て問」なのかと思ってしまうのですが「算数」で解けば簡単に解ける良問も多いのです。もちろん高校数学や大学入試から引用している問題もあって、それは小学生には無理でしょうという問題もあるのですが、その判定がつかないとすべてが「捨て問」になってしまって合格ラインを越えるために取るべき問題がなくなるので注意が必要です。
どうか、「知性を破壊」することなく順当に基礎基本からコツコツと頭を鍛えていってほしいと思います。また、「当たり前のことを当たり前に考えられる」受験生が増えていくことを願っています。そうすることによって逆にあらゆる入試での出題に対応できる頭脳がいつの間にか出来上がっているのです。それは一生の宝物となる素地となります。
「なぜ応用問題ができないのか?」「どうして入試問題になると鉛筆がピタリととまるのか?」それは「本当は基礎基本がわかっていなかった」からなのです。それに気づいてほしいと思います。
最後に当然ですがムキムキに筋トレしなくとも元気にバリバリと活躍して生きていくことは可能です。