ゴールでありスタートの「受験の合格」その目的とは?

死を迎えるときには誰もが人生を振り返ることでしょう。 成功の定義は論をゆずるとして、その際に「後悔はあるが良い人生だった」「よくがんばった」と思うのか、それとも「何も成し遂げることがなかった」「もう一度一からやり直したい」と思うのか・・・

人生では、正直な自分が自分に「よく頑張ったね」と言える生き方が目的であって、誰も失敗したいと思って生きているわけではないと思います。

生徒から「一度もお葬式にでたことがない」と聞いて衝撃でした。そこまで核家族化が進んでしまっているのか、または、寿命が延びてきているのでしょうね。めったに身内が死ぬことがないのでしょう。そうなると人生について深く考えなくなるもしれません。いまは、「生」に対するありがたみが薄れるているのかもしれません。ニュースで流れる「死」はドラマや映画と同等のおとぎ話になっているかもしれないですね。

さて、こんな話を聞いたことがあります。大学を出て司法試験や医師免許に合格した人たちの話です。なかには天下を取ったような横柄なでかい態度で、就職先などを訪問して相手を驚かせるのだそうです。こうした人たちは一定数いるのだそうです。

なにがおかしいのかはおわかりですね?「まだ何事も成し遂げていない」のに天下を取ったような態度というのはやはり違和感があります。天下を取ったとしても感謝の気持ちでもって謙虚にしている人が本当の成功者には多いのではないでしょうか。少し深いことを言いますと「禍福は糾える縄の如し」と言いますので、成功の上り坂を上っているときに失敗の芽はあり、失敗の下り坂の渦中にあるときに成功の芽をつかんでいて、禍と幸福は一つの縄のようなものだということです。

こういう天下を取ったような慢心した態度からは、次の成功への芽は出ません。慢心とは努力の放棄や隙を生みますから転落への始まりとなります。

受験では当然「合格」することが目的ですが、合格についてよく言われていることですが「切符を手に入れただけで、乗車してこれから努力して目的地に向かわねばならない」と・・・

前置きが長くなりました。最近、某ナンバーワン大手塾にご在籍の方々から問い合わせが来ることがあります。私から見て成績や状況をきいていると「これはまずいな」と思われる場合であるにもかかわらず(ストレートにお伝え出来ませんが)「志望校に合格できる」感じなのですね。切迫感や危機感が感じられません。「藁にもすがる気持ち」ではなくて「大船に乗っていて、不沈戦艦大和なのだ」という感じがありありと伝わってきます。すでに不沈艦からは放り出されていて、大海原でおぼれそうになってアップアップしているのに、まだ大船に乗っている気分でいるのがこちらからはわかるのですが・・・・(私の長年の経験でこれは落ちるなと分かるのですが・・・当事者の皆様にはわからないようです)また、そうした大きな態度で入塾しても三国志の名著で有名な吉川英治氏のような「我以外みな我が師」というような謙虚な姿勢がなければ、人から物事を教わったり、受験を上手に過ごして合格することは難しいでしょう。(親が大きな態度であれば当然子の態度も同様であることはお分かりかと思います)

弊塾では模擬テストでよい偏差値が出た場合に徹底的に戒めます。なぜならば、模試で80%合格判定が出たら「合格したような気分」になって勘違いする生徒やご家庭があるからです。これは不思議ですが、事前によい結果が出ていると勉強しなくなったり、気が抜けたりするのですね。合格した後が本番なのですが、「合格」をまだいただいていないのに油断したりしてしまうのが人間の弱さ、心の隙というものでしょう。

過去問でもボーダーである合格最低点を超えていれば安心する人がいますが、これも2割増しぐらいで得点できていないと安心できません。当日は80%の力を出せればいいですから、事前には120%は得点しておきたいのです。(ここでは割合計算を単純化しています)

ですので、合格実績が多数出ている某有名大手塾に通っているからと言って合格を保証されるものでもなんでもないのですが、そう思ってしまう人たちもいるようです。しかも、ほとんどの人が入りたいといって入室テストを受験しているわけですから、この某大手塾に受験生が上位から順に入っていると考えてもよいと思います。

ということは、その大手塾での合格率は、入試本番での実質競争率2倍または超難関校の3倍をそのまま反映する結果になるといってもいいと思います。それは、同じ塾生同士の争いになるからです。しかし、実際はお受験小学校で塾に一切通っていなかったり、個別指導にて良い先生に算数だけ習っていたりという超合格確実層もその大手塾の外にいるわけですから、よくよく考えないと危ないです。

良く見聞きする話ですと、クラス分けテストで点数を取ることが目的となってしまっていて、肝心の「頭を鍛える」「考えられる頭になる」ということからほど遠い学習をしているといいます。そのクラス分けテストで良い点をとってクラスをキープまたはジャンプアップできれば合格できると思って、本末転倒なことをしている方々がいるといいます。(本来的には競争の原理で勉強させる目的なのであながち間違いでもないのですが、極端な話で答えを覚える、解き方を覚えるといった学習になってしまうわけですね)さらに、宿題に追われて考えることをせず、といいますか、インプットなしで「知識なくして議論なし」であるにも関わらずアウトプットばかりをしているのは、まさに「頭を悪くする訓練」をしているようなものです。(復習で通ってらっしゃるエリート層はやることがなく暇なので、こうした演習中心で合格を確実にしてらっしゃると思います)

そんななか、せっかくお家の方がこうしたことに気づいたとしても、当の本人が6年生ともなるとなかなか塾を変えるという環境を変えるという決断ができないようです。ですので、転塾される場合には、とことん下がったりしたり、変わらざるを得ない状況になってから弊塾の門をたたかれる方が多いです。それもそのはず、学校では某大手塾の生徒たちが我が物顔で天下を取ったような振る舞いをしていると聞きます。そうした中で今更塾を変えられるかという子どもの側の学校での人間関係もあるのでしょう。しかし、そんな見栄とか体面を考えている場合ではなくて、その有名大手塾に在籍することを目的とするのではなくて、受験生ですから「志望校合格」を目的としなければならないはずです。落ちればそれこそただの人というよりも、そうした我が物顔の振る舞いだったのであればその落差は激しいことは想像できます。

ですので、親としても「まずい、これは確実に落ちるな」または「こんな考えられない頭では中高では通用しなくなるな」という予感がしてもなかなか現状を変えれなかったりするようです。大手塾ではわざわざご親切な苦言を呈してくれることはないでしょう。「算数を捨てなさい」というような恐ろしい提案はあるかもしれませんが。そういう手もありますが、その後の6年間はどう過ごすのでしょうか?想像しただけでも身の毛がよだちます。算数・数学からは逃げられません。

学校が来てほしいと思う生徒像はどんな人たちか想像してみてください。それは「考えることができて」「努力して勉強する」生徒ではないでしょうか。本来、こうした生徒を選抜し、ふるい分けるために入学試験をしているのではないでしょうか。クラス維持のための勉強で本末転倒なことをしていては、たまたま難関校に合格してしまったら、それこそ6年間は悲惨なものとなるでしょう。そうならないためにも本質的な勉強とは何かを突き詰めて一度考えられることをお勧めいたします。

合格するために勉強するのは、頭を良くして考えれるようになるためなのですが、手段が目的になってしまっていることが残念でなりません。

かといって、私がこういうことをご忠告差し上げても「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」と言いますように、私を含め普通の人間は経験しないとわからないといったことは世の常でございます。ふと目を止めてくださった方は、どうぞこのことを記憶にとどめて気を付けて受験に臨んでいただきたいと思います。

始まりがあれば終わりがあります。私たちの人生の旅とは、「成功」して死に際に感謝の気持ちで人生を終えることではないでしょうか。

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