受験の闇「先取り学習こそ勝利の鍵」「大は小を兼ねる」「数学は暗記だ」

 都市部では受験産業が発達していて、「脳は3歳までに約90%が決まる」などという謳い文句もありますが、はっきり言って出鱈目です。嘘と言って問題があるならば大げさで正確さに欠けた表現です。脳は複雑であるからこそ少しずつしか発達していきませんし、心にも体にも脳にも発達段階というものがあります。
 しかし、次にご紹介するように、教育産業や教育環境によって煽られることによって、焦ってしまって次にご紹介する文言を真に受けて脳の配線を小さいころからぐちゃぐちゃしていくようなことをしがちなので注意が必要です。頭脳を育てるどころか、知性を破壊してしまっていることも多々あります。また、勘違いしやすいのですが、頭だけが育てばよいのかと言うと学力を伸ばすためには「心」と「体」も育っていないと頭だけでは育ちません。ここでは詳しくは論じません。
 中学受験にともなう次の文言をお聞きになったことがあるかと思いますが、全て間違いだと言いきれます。
「先取りこそ勝利の鍵」
「大は小を兼ねる」
「数学は暗記だ」
 これらは、昔「中学受験合格後の伸び悩み」でしたが、最近では「中学受験をむかえるまでに学力崩壊」を引き起こしています。前回の記事で触れましたが、もう少し詳しく考察していきましょう。

◆「先取りこそ勝利の鍵」⇒「行き過ぎた先取りは、学力の崩壊やバーンアウトを生むだけ」
 先取りこそ勝利だという事で、低学年から大手塾に行かせてプリント漬けにしていますが、算数においては特に「当たり前のことを当たり前に考える」という知性を破壊してしまうことをご存知でしょうか。機械的にとにかく慣れれば解けることを目指しますので、考える頭が育つはずがありません。脳には発達段階があって、無前提に考えもせずに素直にすべてを機械的に暗記できる「記号的(機械的)暗記」の時代というのがあって、それが小学校低学年の時期に当たります。なんでも素直に抵抗なくそのまま覚えることができる時代です。言語の習得などに最適です。
 さて開成出身者で東大を目指していた人がいて、多浪してしまったのだそうです。英語が出来なくて悩んでいたのだそうですが、あるときに中学生の英語が出来ていないことに気づいたのだそうです。そうなのです。どんどん先取り学習を進めて行くうちに中学生の英語で穴ポコが空いたまま放置してしまっていて、学力が積みあがらなくなっていたのだそうです。そこに気づくまでが長かったという事です。まさか、そんな基本的な部分で躓いているなどということは意外な盲点だったのでしょう。
 その昔、東大合格者をたくさん出して驚かせた灘中高があります。当時灘は、全国に先立ってカリキュラムを工夫して5年で学習を終えて、残り1年は受験勉強に専念していたのだそうです。その灘方式が注目されて全国の私立中高が真似をするようになったのです。
 ここで、「やっぱり先取りこそ勝利の鍵じゃないか!!!」という声が聞こえてきそうですが、ちょっと待ってください。先取りって言っても、全国で最難関の学校がたった1 年分だけ先取りしただけではないのですか?
 灘は、最終コーナーの高3の10月に最も標準的な模試を受験させるのだそうです。天下の灘がどうしてそんな標準的な模試をわざわざ受験させるのでしょうか?それは基礎基本の重要性を知り尽くしているからこそなのです。
 翻って中学受験に戻って見ていきますと、小学校の低学年から大手塾に行って高学年の受験テキストの焼き直しのようなテキストをひたすら解いて解いて解きまくるという事をやっています。どれだけ先取りするんだという感じです。小学校の低学年では「豊かな経験」こそが重要であって、自我の芽生える小学4年生から考えるということをするための準備が大切なのです。いつまでも低学年の「習うより慣れろ」の延長では、いつまで経っても中学校側が欲しい「考えることが出来る受験生」にはなれません。
 だからこそ、中学校側は考えられる受験生を選定しようとして、受験テキストを繰り返しやりさえすれば解けるような問題を出題するのではなくて考えることが必要な問題を出題してきたわけです。最近では偏差値50辺りの学校であっても、見たことがない問題なのだけれども、普通に当たり前のことを当たり前に考えさえすれば出来る問題を出題してきたりしています。それは、中学入学後の学力崩壊が凄まじいからだと簡単に推測がつきます。
 ところが、これに対してとある某大手塾では次のように説明会でアナウンスしていたそうです。「中学校の出題が多様化しています。思考力を問うためにいろんな問題が出るようになっています。ですから、みなさん低学年から塾に通ってたくさんの問題を解いて解いて解きまくってください」と言っていると聞きました。
 これが本当ならば、中学校側の狙いとは逆の方へとデマゴーグしていることになります。そういうことでは、子供たちに未来がないから、そうならないように入試問題を工夫しているのに、その中学校の先生たちの努力を水泡に帰すようなことを教育産業は平気でしてしまうのだという事になります。
 先取りが有効な場面もあるでしょうけれども、やはり行き過ぎた滅茶苦茶な先取りは子供たちの知性を破壊して学力崩壊・バーンアウトへの準備をしているだけなのではないでしょうか。

◆「大は小を兼ねる」⇒「大は小を兼ねることはなく学力の崩壊を招く」
 とある東大法学部合格者が経験した無駄学習法の際たるものがあります。英語の先生から「東大を受験するならばニューズウィークやタイムぐらい読めないといけない」と言われて、和訳英訳に励んだ結果、成績がものすごく下がったという経験談を読んだことがあります。その方は、成績がどんどん上がっていっている同級生にどんな勉強をしているのかと聞くと「高1の時に学校から配られた基礎英語の参考書を10回やった」「それでいいのか?」「そうだ。それでいいんだ。」ということだったと述懐されておられました。
 先ほどの開成出身者の話でもそうですが、多浪をしている人は難しい問題ばかりをやります。基本は出来ている前提です。ですが、学力が伸びない原因はそこではないのです。100%基礎基本のヌケモレなのです。穴が空いているのです。だから積んでも積んで学力が積みあがらずに穴から漏れていくのです。どうして英語がこんなにできないのだろうと悩んでいたら、なんと中学英語が理解出来ていないにも関わらず、どんどん難しいことを勉強していたので全く学力が積みあがらなかったという悲劇も聞いたことがあります。ですから、「大は小を兼ねない」のです。
 ニューズウィークを読むのに必要な単語数は10万語だそうです。東大受験で6000語から8000語だそうです。重ねて言います。「大は小を兼ねない」のです。背伸びして分不相応なことをすれば、成績が上がるのかと言うと、逆に成績が下がってしまうことを知っておいてください。

◆「数学は暗記だ」⇒「暗記は暗記を呼んで無限の暗記ループを生む」
 「数学を暗記だ」という本を灘⇒東大理Ⅲに進学した教育評論家の方が出版しておられるのですが、はっきい言って迷惑です。それを真に受ける受験家庭が出てくるからです。灘出身の方に言わせると、これは灘は灘でも運動部の落ちこぼれの方の勉強方法なのだと言っていたというのを本で読みました。つまり、推奨されるべき勉強法でも汎用性もないその場しのぎの勉強法でしかありません。算数・数学にも暗記しなければならないことはありますが、基本的にやみくもに「あ」は「あ」なんだと記号的に暗記する類のものではなくて、算数数学を仕組みの理解と理解をもとに概念形成をしなければ、役に立つ「生きた知識」「使える知識」とはならないのです。ですから、基礎基本から磨き上げて学力を積み上げっていっていないと、無限に解法を覚えなければならなくなりどこかで破綻してしまって学力が崩壊してしまうのです。ほとんどの場合には、焦りから出来るように見せかけるため(成績を取ろうとして)、帳尻合わせでハリボテの学力を偽装(塾のクラスを上がろうとかキープしようという目先の必要性に迫られ)してきたわけですが、どこかで崩れてしまうのです。まあ、大学入試のとても難しい理解の及ばないものを最後は暗記するならば仕方のない面もありますが、中学入試の受験勉強をすべて暗記に頼るようになるとジ・エンドです。無限丸暗記地獄の始まりです。模擬テストや日々の塾内テストをクリアできていたとしても、いずれ破綻することになります。学力の偽装は学力崩壊と言う果実しか生みません。
 思考力があるかどうかを見るために中学校側は算数をとても重要な教科として位置付けており、説明会でも「算数が重要で合否を分ける」とアナウンスしています。灘の先生方も、「算数だけが合格者平均点と受験者平均点の差が開いており、すなわち本校に合格しようと思ったら算数が出来ないと合格できないという事です」と断言しておられました。どこの中学校でも合格者平均点と受験者平均点とで差が開くのは算数なので、同様のことが言えます。ですので、中学受験では算数が出来ずして合格はないのです。

■発達段階に応じた適切な教育こそ勝利の鍵!バーチャルでない「豊かな経験」こそが後の学力伸長のための最適な準備
 「うちの子は、小学生なのに司馬遼太郎が読める」と親〇〇の極致を地で行っていませんでしょうか。子供は器用にイルカの曲芸のように親の期待に対応はできます。ですので注意が必要なのです。司馬遼太郎を予備知識もなしに読んで分かる子はいません。読むことは読めるでしょう。それは字面を追っているだけで、中身を理解してちゃんと把握できているかと言うと、まったく理解を伴っていないことがほとんどです。うちの子は天才か?と思われるようなことがこれまであったかもしれませんが、それはほとんどの場合親の欲目であって、勘違いであることがほとんどです。
 塾などに低学年から入れていると、高学年のテキストの焼き直しのようなものをたくさんやらされるのですが、親の側は勘違いが始まってしまいます。我が子は御三家に行って東大に行けるのではないか?高学年に入ってからも沢山の難しい問題を解いていて、うちの子は偏差値も取れていて、毎週のテストも詰め込めば何とかなっている。このまま行けば難関中まっしぐらだ。と・・・勘違いしていませんでしょうか。中には学力偽装ではなくて真の学力がついている子たちもいるでしょう。
 ですが、ほとんどの場合は「うちの子は小学生なのに司馬遼太郎が読める」と勘違いしている親と同じことが起きているので注意が必要なのです。
 今はデジタルの時代だからとデジタルで学習することが最先端のように勘違いしていませんか?デジタルでの経験は豊かな経験にはなりません。もちろん映像などで海外の様子を観たりすることは現地に簡単に行けるわけではないので、貴重な体験と言えるでしょう。ですが、リアルな経験として経験値として蓄積していないと映像体験をリアルに感じ取ることは不可能なのではないでしょうか。なので、地道にリアルに経験したことがあるからこそ、読書したりすることでより経験の幅を広げることが出来るのではないのでしょうか。

 小さいころからプリント漬けにして知性を破壊してしまったりバーンアウトに向けて着々と準備を進めるのではなくて、低学年までに必要な一番大切なことは「豊かな経験」であり、親が厳しさと優しさのバランスの取れた愛情をたっぷり注いであげることです。プリントだけをふんだんに与えてもなんにもなりません。もちろん、1枚たりともプリントをやってはいけない、問題集を全くやってはいけないとまでは言いませんが、その前提の経験や愛情を得ていないとすべては無になります。

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